河合貴子のレッズ魂ここにあり!「語り尽くせぬこの思い~山田暢久選手」
J開幕から浦和レッズを追いかけ、ケーブルテレビのパーソナティなどで活躍をしている”タカねえ”こと河合貴子さんによる浦和レッズコラム。毎週、タカねえの独自視点の浦和レッズを語ります。
山田暢久選手、浦和を愛してくれて有難う!
真っ赤に染まった暮秋の埼玉スタジアムのゴール裏に、ハート6と共に1994~2013が浮かびあがり、山田暢久選手が浦和で過ごして来た20年間が走馬灯のように駆け巡って行った。
山田選手はU-12日本代表で世界少年大会で優勝し、藤枝中学校時代は全日本ジュニアユース大会で優勝、藤枝東高校時代は全日本ユース大会で優勝し、ユース日本代表でも活躍していた。藤枝東ではMFとしてゲームメーカーを務め、代表では右サイドバックをこなし攻守に渡り優れたテクニックを発揮していて、当時の静岡県では「堀池巧選手の後継者(当時はエスパルス)」として期待をされていた選手であった。それが「最初に声をかけてくれたのがレッズだったから・・・」と山田選手はそう言って浦和に入団を決めたのであった。
入団当初から山田選手は、人見知りが激しく照れ屋で漫画家の古沢優先生「赤菱のイレブン」に登場する山田選手のほっぺたのグルグルマークのようにあどけない幼さがあった。
1年目は、ユース代表に呼ばれてチームを離れることが多かったが、攻撃的なMFやFWとして15試合に出場、身体能力の高さとテクニックを見せ付けていた。2年目にはレギュラーに定着し、オジェック監督から右のウイングバックを任され、上下の豊富な運動量とサイドを突破しクロスを上げる大胆なプレーとは裏腹に、インタビューをすると口数が少なく恥ずかしそうに下を向いていた。口下手でなかなか本音が伝わり辛いところがあった
山田選手が「サイドよりも中でプレーしたい」と自分の意志をはっきりと公言したことがあった。だが、その願いは叶えられずに監督が変わっても浦和の不動の右サイドバックとして長年活躍していた。決して山田選手は言葉にしなかったが、そこには「チームのため」「浦和のため」と言う思いが隠されていた。ブッフバルト監督時代にキャプテンに任命された時も山田選手は「キャプテンってガラじゃないし・・・。無理だよ」と言いながも強い責任感を持ちキャプテンとして、2004年、浦和を初めてステージ優勝へと導いたのだった。
実はこの年の秋、浦和は坪井・山瀬・長谷部・アルパイと怪我人が続出してしまい、9月26日降りしきる雨の中、駒場スタジアムで行われたガンバ大阪戦で山田選手はトップ下で起用されることとなったのだ。前節にFC東京に敗戦していた浦和は、15試合づつの2ステージ制で優勝するためには連敗は許されない厳しい状況下であった。前半の立ち上がり、ガンバ大阪のフェルナンジーニョ選手に先制点を決められるも、ペナルティーエリア左外側のFKを三都主選手が中に蹴ると見せかけて、トリックプレーでグランダーのパスを山田選手に託し、受けた山田選手は渾身の力を込めて右足を振り抜き同点ゴールを突き刺し浦和が逆転勝利する原動力となった。試合後、ブッフバルト監督は「ヤマは自分の出来ることをしっかりとしてくれた」と満面の笑みを浮かべていた。この試合が、優勝のターニングポイントの1つであった。
山田選手のエピソードは数々あるが、常に山田選手の中には『One for All』の精神が流れているように思う。一見、のんびりとしていてマイペース型の様な山田選手だが、実は義理人情に熱く、真が一本通った選手である。決して「俺が、俺が・・・」と言うタイプではないし、飄々(ひょうひょう)としているように見えるだけで、内面は熱い。この20年間を振り返るとスキルアップを考えて移籍するチャンスはあった。それでも山田選手は浦和に踏み止まった。山田選手は「必要とされていたから、浦和にいた」と照れ笑いをした。山田選手が浦和で歩んで来た功績は、何物にも代え難いものがあった。だからこそ私は、少々エゴだと思いながらも山田選手が引退を表明するまで、クラブは山田選手と契約をし続けて欲しいと切に願っていた。生涯現役で、生涯浦和の名物選手が居ても良いと思っていた。しかし、それは叶わぬ夢で終わってしまった。
山田選手の退団セレモニーで花束を渡すこととなった山田選手の長男で中学生の樹生君は、大観衆を前に緊張して震えが止まらなかったそうだ。花束を渡すだけなのに・・・。改めてプロのサッカー選手である父親の偉大さを知った。妹と一緒に父親の偉大さを感じながら花束を差し出すと、込み上げて来る涙をグッとこらえながら山田選手は受け取り「20年間、浦和でプレーをさせてもらい有難うございました」と開口一番に感謝の思いを語り、そして最後に「僕は、浦和レッズが大好きです。20年間、幸せでした」と照れ屋で口下手な山田選手が20年間の全ての思いを込めて挨拶をしたのだった。
チームメイトが山田選手を胴上げをする時に、この日ピッチに立つことが無かった山田選手は練習着であった。樹生君は自分が来ていた背番号6のレプリカのユニホームを父親に差し出したのだ。その姿が、本当に申し訳なく思えた。誰もが、3-0ぐらいの試合内容で最後15分でも5分でも山田選手をピッチに送り出したかった。柏木陽介選手も永田充選手も泣いていた。それでも山田選手は「これで良いんだよ」と笑ってくれた。
浦和を愛した山田選手が遂にユニホームを脱ぐ時が来た。埼玉スタジアムに響き渡る山田選手のチャントが「浦和を愛してくれて有難う」と心の叫びとなっていた。
Q.膝の怪我について教えて下さい。
A.スポーツは、相手と接触したり外的要素が加わって起きる一般的な怪我と慢性的に使ったり、酷使することで起きて来る障害と2つの病態があります。膝の怪我も障害も長くなるし、重症の場合が多いです。サッカーは、特に膝の怪我も障害も多いので注意が必要です。中には、手術が必要になる怪我も沢山あるので、やはり早く適切な診断をさせることが大切になってきます。
川久保誠 profile
1981年慶應義塾大学医学部整形外科教室入局。93年医学博士。94年英国リーズ大学医学部大学院へ留学、修士課程修了。96年より慶應義塾大学病院膝関節・スポーツ外来担当。東京歯科大学市川病院整形外科講師を経て2004年4月より川久保整形外科クリニック院長となる。浦和レッズレディースのチームドクターも務めた。
川久保整形外科クリニック
整形外科・スポーツ整形・リュウマチ科・リハビリテーション
http://www.kawakubo-clinic.jp/