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無料記事:<吉沢康一特別レポート>今井敏明「浦和のサッカー指導」回顧録(2016/3/14)

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今井敏明さんはプロフィールを書くのも大変なほどの経歴の持ち主である。母校浦和西高校のコーチから始まった指導者人背は、早稲田、富士通、東京ガス……。2000年には川崎フロンターレの監督もシーズン途中から務め、少年から女子、ユース、各国代表チームまでと多岐に渡る指導をしてきた。そんな稀有な経験を持つ今井さんは地元埼玉・浦和のサッカーをどう感じているのか、ホームタウンでフットボールを見続ける吉沢康一氏によるレポートでお届けする。(浦和フットボール通信編集部) Text:吉沢康一 Photo:椛沢佑一

2015年10月10日、埼玉工業大学グラウンドでおこなわれた全国高校サッカー選手権予選の県大会一回戦。浦和西対正智深谷。試合は延長戦に突入していた。

一進一退の攻防を繰り広げ、あわやという場面を何度も作ったものの、最後はカウンターの餌食となり浦和西高校の高校選手権は幕を閉じた。勝利した正智深谷は3回戦でインターハイに出場した西武文理をPK戦で退けると勢いに乗り、決勝戦では《県内三冠》の西武台を接戦の末に1-0で下し全国大会出場を勝ち取ったのだった。

勝負に「たら・れば」は禁句だが、もしも一回戦で浦和西が勝利を手にしていたら――。

グラウンドの片隅で戦況をじっと見つめていたのが、浦和西高のOB今井敏明だった。

「苦しい時間も多かったけれど、ピンチを凌いでチャンスも作っていたからね。それを決められるどうか。うーん、残念」

浦和西が最後に全国の舞台に立ったのは、今井がコーチをしていた1987年の北海道で行なわれたインターハイだから、かれこれ30年近く前の話である。プロの指導者であるが、今井の母校への愛情は変わることはない。もっとも愛情を注ぎ込んでいるのは母校というよりサッカーへの愛情だろう。その経歴は決して順風満帆とはいえない。

「こんな人生を自分で選んだわけだけど、サッカーが好きだから、それは仕方ないよ」と人事のように少し呆れたように自分ことを話してくれた。

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昭和29年生まれだから、小学校時代は昭和30年代。まさに『三丁目の夕日』(ビッグコミックオリジナル・小学館)の頃の浦和で泥んこになって野山を駆け回っていた。「小学校のときはソフトボール部だったんだけど、東京オリンピックを見て、親父(幹彦さん・92歳)が『お前はサッカーをやれ』ってね。ボールを買ってきたんだよ。サッカー部の高野先生がソフトボール部だけど、お前はサッカーやっていいぞって。それからだよね。それで大谷場中でサッカー部に入ったんだ。でも弱くてね」

強かったのは常盤中学で、後に浦和南から三菱重工でプレーし、日本代表にも名を連ねた関口久雄がいた。原山中には清水和良(サッカーカメラマン)、一学年下に高校・大学でチームメイトとなる西野朗(前名古屋グランパス監督)、岸中には清水秀彦(サッカー解説者)といった面々がいる時代だった。ポジションはセンターフォワード。DFをやらされても性格がそれを許さず、強引に上がっていてシュートを決める感じだったという。サッカーに嵌ったのは中学2年の時におこなわれたメキシコオリンピックだった。日本代表は銅メダルに輝き、大会得点王となった釜本邦茂は今井の最初のアイドルとなった。

「親父と一緒に天皇杯の決勝を見に行ったの。大学が社会人に最後に勝った天皇杯。早稲田には釜本さん、森さんがいて、中学生だったけれど早稲田でサッカーがやりたいって思ったよ」

浦和西高校に進学すると国際レフェリーでも活躍した仲西駿策氏(元埼玉サッカー協会副会長)の指導を受け、センターフォワードとしての頭角を現す。全国大会とは無縁だが、埼玉県予選を勝ち上がった浦和市立(現市立浦和)が全国制覇を達成するなど、埼玉サッカーが隆盛を極めていた時代だった。早稲田大学に進学するが少数精鋭と言ったもので、1年下に西野朗、2学年下に加藤久(元日本代表)、3学年下に岡田武史(元日本代表監督)がいた。高校サッカー界の重鎮、暁星高校の林義規監督は同期だ。今井は1年生からレギュラーとして活躍し1年、2年と大学選手権優勝。3年、4年では関東大学リーグを制覇するなど沢山の栄光を手に入れた。

早稲田大学時代は関東大学2連覇に貢献した。

早稲田大学時代は関東大学2連覇に貢献した。

卒業後にJSL(日本リーグ)の富士通に入社。膝の怪我と家業の工場を手伝うために4年で退社。時を同じくして、母校の浦和西高のコーチに就任した。

「仲西先生が国際レフェリーになったこともあって、チームを留守にすることが多くなったんだよね。それで『手伝え』ってね」

浦和西へは「全然行かない時もあった」が、81年~87年までコーチを務めた。83年に高校選手権県大会決勝に進出。87年のインターハイ出場は今井の指導が身を結んだ結果だった。88年より早稲田大学のコーチを3年間勤めた後に、91年に富士通に復帰。翌92年から東京ガス(現FC東京)のコーチ、監督。女子チームのシロキ、日本文理大学の監督の後、2000年に川崎フロンターレのコーチ(シーズン途中に監督に昇格)としてJリーグでも指揮を執る。驚かされるのはその後の指導者人生だ。詳しくはプロフィールを参考にしてもらいたいが、県リーグの監督から、代表チームの監督、アフリカへ行き、モンゴルに行き……と自らを必要とするところがあれば、ところ構わず飛んで行く。そして少年から女子、ユースから代表までとカテゴリーもこだわらない。

「サッカー好きのもの好き。何だか苦しいことを選択する人生だよ」と苦笑するが、今井はサッカー界でもバイタリティに富んでいて、人望が厚いことで知られている。

EAFF予選、当時マカオの監督だった影山監督と。

EAFF予選、当時マカオの監督だった影山監督と。

指導者として、プロのサッカー選手に思うこと、哲学

「早稲田のコーチ時代は良い選手に恵まれたね。湘南の監督をしているチョウ(・キジェ)もそうだけど、大倉智(いわきFC社長)もいて、大倉には俺も若かったから、雨が降った日は、まだ土のグラウンドだった東伏見でダイビングヘッドをやって見せたりね。奥ちゃん(奥野僚佑・元モンテディオ山形監督。和魂サッカースクール代表)とか相馬(直樹/町田ゼルビア監督)は真面目だったね。逆に(池田)伸康(浦和レッズユースコーチ)はやんちゃだったから、俺が頭を押さえつけるような感じだったね。チョウは日立に入ってもまれたところもあると思うけれど、大学時代もサッカーに対して情熱的でひたむきだったよ」

古賀聡(早稲田大学監督)や《野人》岡野雅行と二人三脚で奔走するガイナーレ鳥取代表取締役社長の塚野真樹も今井の早稲田時代の教え子だ。

現在の日本サッカー界を牽引する人物の若き日を知り、指導者としても多くのプロサッカー選手と接してきたから思うことが今井にはある。

2010年にはU-20、U-17スーダン代表監督も務めた。

2010年にはU-20、U-17スーダン代表監督も務めた。

「プロスポーツ選手って心が強いと思われているけれど、実際にはその逆だと思うんだよね。むしろ、繊細な心を持っている奴じゃないとトップにまで上り詰められないんじゃないかな。それはつまり、道具だったり、コンディションだったり、感覚を研ぎ澄ましてこだわりを持つタイプじゃないと上がっていけないのかなって。プロ選手は緊張の糸をピンと張り続けなくちゃいけないけれど、張りすぎたら簡単に切れちゃう。でも少しでも緩めたらパフォーマンスは一気に落ちてしまう。それが現実なんだよね。一般の人が思っている姿とはギャップが大きいかもしれないけど。自分もフロンターレの監督をクビになった時に、かなり落ち込んだりしたからね。僕の場合は高校のサッカー部の同級生が「どうせ暇なんだからゴルフでもやれ」って、道具一式を持ってきて、気持ちを紛らせてくれたり、気遣いしてくれて乗り越えられた感じだよ。あの時は毎日ゴルフの練習をしたけれど、今は友達に本当に感謝しているんだよね。あれがなかったら家の中でふさぎこんで廃人みたいになってしまったかもしれないって思う」

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育成年代への提言

「守備の話になるけど、早稲田のコーチ時代に感じたことがあるんだよね。ほとんどのコーチが「待て」、「待て」と言っていたのが印象的だったね。僕の考えはアグレッシヴにボールを取りにいく。奪いにいく。積極的にボールをとりにいった上で、相手が上だなと思ったときにはじめて「待て」だと思うんだよ。それなのに、ボールが奪える相手なのに、最初から「待て」というのはどうなのかなって。アグレッシブな守備とはボールを奪いにいく。つまり「Win the Ball」、ネガティブな守備はゴールをさせない。つまり、シュートを打たせてもゴールキーパーが防げる範囲に追い込んだり、枠を外れるシュートにしたり、ゾーンを狭めたりして、ゴールを割らせないというように考えているんだ。いずれにせよ、今も「待て」の守備が多いよね。

「飛び込むな」、「(相手に)やらせるな」のサッカーっていつボールを奪うんだろう? それって相手のミス待ちのサッカーでしょ。サッカーの面白さってどうやってゴールを奪うのかっていうところじゃないかな。

あと、良い意味でも悪い意味でも(日本サッカー)協会の指導が行き届いちゃっているから、みんな同じようなサッカーをやりたがるよね。自分はウォーミングアップから、他のチームとは違うことをやりたい方なんだよ。理由? それは単に他と同じは嫌だから(笑) 確かにルーチンで行なうことも、それで意味があるんだけど、その日、その日で天気も気温も、選手のコンディションも違うでしょ? その辺のことも微妙に調整してやるべきだと思うんだよ。そういう変化ってとても大切だなって」

台湾代表監督では北京五輪最終予選に進出した。

台湾代表監督では北京五輪最終予選に進出した。

埼玉のJクラブ

個人的な考えだけど、クラブの保有している選手のせめて半分は、地元出身の選手でいて欲しいよね。そうでないと「クラブ愛」とか育てられないんじゃない? 強いことは大切だけど、地元の人が熱くなれる、感情移入できるチームじゃなかったら、意味がないんじゃないかなって。相対的に見れば、昔よりも今のほうが技術的な部分でも、みんな上手くなっていて、選手にバラツキも少なくなっていると思うわけ。そうなると特徴的な選手が出てきて欲しいんだけど、ここでも、みんな似ているプレースタイルなんだよね。それって育成年代での問題点でしょ。

僕はさいたま市になったけれど、今でも「浦和」、「大宮」って違うと思っているから、そういうところではセパレートして「浦和」、「大宮」として考えたいんだ。それでいいのかなって。そこで競い合って「俺は浦和だから」という部分、ハートの部分を大切にして、ピッチ、試合で出していける選手が見たいし欲しいよな。もしもだけど、県北の熊谷とかに、もうひとつチームがあったら、県南に集中しているパワーバランスが分散するのかもね。浦和レッズだったら、その財政力やクラブの規模を考えて、ジュニアユース年代のチームが県北や県西とか、つまり今の下部組織のチームに加えて一つないし二つくらいあっても、悪くないんじゃない。サッカーの組織は、ピラミッド型に下は広く作って、それから上に上がっていくにつれセレクトされて生き残るシステムにならないとダメだと思うしね。子供って変化するからね。セレクトした選手がどういうタイプなのか? 早熟タイプを見抜けるだけの先見性があるのか? 逆に高い潜在能力を見抜けるのかとか、その辺は海外の経験のあるクラブに聞いてみたいよね。何度も言うけれど、今はみんな同じタイプの選手ばっかり揃えているんだよね。加えて、やっているサッカースタイルが、ここでもみんな同じなんだよ。それってどうなのかな。その中でアントラーズはジーコの考えが浸透しているからブラジル流。生き残った奴が一番っていうシンプルな考えが分かる。トップが勝っていない時でも、下部組織が勝っている。つまり何年か後は……、また鹿島が強いんじゃないかなと。

それと育成年代にリーグ戦を取り入れながら、一発勝負のトーナメントの重要性を説く偉い人たちがいるだ。あれだけ、「リーグ戦」、「リーグ戦」と言っておきながら、今度は一発勝負で勝つ、勝負強さが大事だって。どっちも大事なんだけど、今でも日本代表で高校サッカー出身の選手が中心で活躍するのは、緊張感のあるトーナメントを戦ってきているからなのかもしれないよね。

ここ一発に人生をかけて戦うっていうのは本当に大切なことなんだよ。

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あっという間に、時間が過ぎてしまったが、サッカーの話は尽きることはなかった。「ここ一発に人生をかけて」というフレーズを聞いたとき、まさに自分のことを言っているんだなと思わせる説得力があった。昨年は充電期間に充てていたが、今年からはフィリピンでのサッカー普及に尽力するという。もっとも、どこに行っても故郷は浦和であることを今井自身が誇りに思っていることは言うまでもない。

(了)

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